なぜ人はインスタ映えを目指すのか
なぜ人は写真を撮るのか。疑問に思ったことはないだろうか。
私は特に普段は写真を撮るわけではない。むしろ積極的に撮らない選択をする。
といっても、めちゃくちゃたくさんなわけではないだけで、撮るっちゃ撮るのだが。
写真好きな人はたくさんいる。ふと数人の友人を思い浮かべると、デジタル一眼カメラを買うレベルの人は、30%くらいいるのではないだろうか。
スマホの普及が拍車をかけている。特に若い子を中心に簡単に写真を撮っている。花を見て、ご飯を見て、果ては駅のホームで自撮り。。
「インスタ映え」が去年の流行語大賞にノミネートされるようになったほど、「撮る」という行為は、デジタル一眼カメラを買うような人たちの特権ではなく、もはやいつでもどこでも誰でも行うものになってしまったのだ。
特に若い子(に限らないが)は、こぞって「インスタ映え」を目指して行動し、SNSにアップする。
そこでふと疑問に思った。
写真を撮る行為によって、一体何を充足しているのだろう?
最初に思ったのは承認欲求。
写真を撮って、SNSに上げる。コメントをもらえる。お気に入りをもらえる。イイねをもらえる。
しかし、いささか弱い。承認欲求しかないのであれば、従来の写真好きに加えて、SNSにはまっている人しか写真を撮る人は増えないはずだ。
「インスタ映え」が社会性を帯びるということは、この社会において、「インスタ映え」によって充足されている何かがあるはずなのだ。
そこでもう一度考える。スマホで撮っている人は、写真を何で撮っているか。アプリである。もちろん、通常の写真機能で撮っている人もいるが、インスタで、SNOWで、B612で、撮る、盛る、撮る。
写真とはもともと現実を切り取る機能であった。
しかしアプリは違う。「盛る」という言葉が出てきたように、映しているのは現実ではなく、理想に近い、現実。もはや虚構である。
理不尽が飛び交う現実の中で、一際大きな輝きを放つ、現実のフリをした砂上の楼閣。
そこでハタと気がついた。
ああ、そうか。
自分が今生きていて、素敵だと思いたい現実が、今ここに本当にあるんだということを信じるための動作として、写真を撮っているんだ。
映画で見たテレビで見た漫画で見た本を読んで思い描いた「あの素晴らしいはずの現実」が、今まさにここにあるということを信じるために、写真を撮っているんだ。
だから、現実風フィクションである加工アプリが受け入れられるんだ。
そう考えると合点がいった。
若い子が躊躇なく自撮りができるのは「可愛い私」を写真を通じて確認しているから。
写真をアップするかどうかは関係なく、写真を撮るという行為で、フィクションの私を現実の私に顕在化させているのである。
理想を現実に呼び出す行為が写真を撮ることだったのである。
なるほど。そこに合点がいって以来、写真をよく撮る人への違和感も抵抗感もなくなっていった。あの人は、いま、理想を召喚しているのだなと。
そして無論、私もそんな一人なのである。
ああ、今日は、桜が綺麗だなぁ。かしゃり。