歌の表現力

昨日、「音楽チャンプ」という番組を見てた。

 

未発掘の歌が上手い子を見つけよう的なもので、

アナウンサーが日本全国を飛び回って、歌の上手い人を現地で募集し、カラオケを歌ってもらい、採点で100点だったら決勝(番組)進出。オーディンション数合計で3000人というのが売り。

100点の人は(たったの)8名だったが、100点未満でも審査員特別枠が3枠あり、合計11人が番組に出演。

番組で熱唱して、正確性(機械採点)+表現力(審査員採点)×審査員3人の計400点満点で争うというもの。

 

アナウンサーが現地で集めている際、歌を歌うチャレンジャーは、通行人飛び交う市街地や景勝地や田んぼの前など、ありとあらゆる場所でカラオケを熱唱していた。 

 

そこで歌を歌っている人たちの表現力に驚く。

 

もちろん防音施設などあるはずもないので、さながらアスリートミュージシャンのような環境の中、プロでもない人が熱唱。ヘッドバッドしている人もいた。

大層恥ずかしいはずなのに、惜しげも無く美声を披露し、パフォーマンスをしている。

 

そして、Twitter等で番組告知をしていたらしく、

例えば姫路でロケをしていても大阪から訪ねてきている人もいた。

(大阪は大阪でロケやっているはずなんだけど、まぁ、日程が合わなかったのでしょう)

 

歌を聞いていると、ただただ、すごい。

 

100点になっていなくとも、90点台後半はバンバン出てくる。

素晴らしい歌声。一体、「歌う」という行為に対して、これまでどれほどのエネルギーをかけてきたのだろうか。

 

「これで番組に出て誰かの目に留まったらプロデビュー」という気持ち一つで、ロケ地に足を運び、この歌を歌っているのだなと思うと、バラエティ仕立てのこの番組にも感情移入をしてしまう。

 

 

ところで、広告屋なので間で流れているCMを見ながら「この番組の視聴ターゲットはどこだと説明してスポンサーに売っているのかな」と思って見てしまう。

ポカリ(大塚製薬)やauKDDI)、ファブリーズ(P&G)なんかが出ているのを見ると、

10代+その親、というターゲット像が見て取れる。

 

確かに出演している人は若者が多い。

歌というのはエネルギーが必要なもので、若者のものなのか。

 

閑話休題

 

この番組の決勝は11人出場しているが、6人はほぼほぼカットされている。が、「審査員特別枠」の人はカットされていない。

 

「圧倒的に正確で上手い」ということが証明されている決勝戦に、正確なだけの歌は要らないということなのだろう。採点だって、見た通り「表現力」が3/4を占めている。

 

優勝した子は「審査員特別枠」の高3の女の子。

この子が抜群に上手い。

いや、「上手い」のではなく、抜群に表現力がある。

 

高3なんて、「恥ずかしい」という気持ちがまだまだ大きくて、

テレビに出て、しかも感情をかなり込めて歌を歌うというハードルは相当高いはず。

一体、この子は何を経験して、何を思って、こんなことができるようになったのだろうか。

 

ということを思いながら、AIが進歩した先に必要なものはこういうものかもしれない、と思った。

 

今やなんでもできる時代である一方で、コモディティ化がすごい。

ちょっとしたことは誰でもできる反面、「そんなちょっとしたことやって意味あるの?」と思ってしまうことは多々ある。

 

かといって、難しいことやろうとしても、GoogleとかAppleとかがどうせやってるだろうし、彼らがやろうとしたらとんでもなく追いつけないじゃん、と思ってしまう。(実際はそんなことはないから、スタートアップという役割があって、実行している人たちがいるのだが)

 

シンギュラリティが起こった後の世界、あるいは、シンギュラリティに近づいていく世界において、今の時代の人間が未来を見越してやるべきことは何なのかをたまに考えるのだが、その答えの一旦をこの番組で見たような気がした。

 

人間へと届ける「表現力」とは、言葉にできるが、きっとそれは0と1では表現しにくい、あるいはまだ表現できるやり方が確立されていないもので、人に多大な影響を及ぼす因子なのだなぁと。

 

「表現力」を手に入れたいと思っているわけではないが、人に影響を与えるようなことはしたい。今この瞬間未来に向けて何ができるのだろう。